赤穂城跡(兵庫県、赤穂市)
赤穂に来たら観光はどうする?やっぱり忠臣蔵で知られる赤穂城跡かな。…と、城に興味ある人だけでなく、興味のない人も「聞いた事がある場所だから」「有名だから」と足を運んだりするかもしれませんね。
ただ、歴史好きは勿論楽しめますが、城郭の残っていない赤穂城跡は歴史や城に興味ない方にとっては、本丸跡に関して言えば行っても楽しくないかもしれません。
上の写真は赤穂城跡の三の丸大手隅櫓。ここはJR赤穂駅から南にくると見える景色で、この景色が一番城らしく見える場所。この三の丸大手隅櫓は昭和30年頃に再建されたもの。今や赤穂城のシンボル的な風景になっています。
しかし、本丸跡の城内はこんな感じで少し殺風景…。
いや…、殺風景と言うと語弊があります。正確には「城跡は全体的にキレイに保存&整備されています」が正しいです。
私は歴史が好きなので、各所に「広間」「台所」「土間」「奥居間」と言った案内があるのは有難い。ただ、この赤穂城跡はキレイに整備され過ぎるので、歴史に興味ない人からすると殺風景に感じ、逆に刺激なくヒマに感じるかもしれません。そんなニュアンス。
例えば、山城跡などお場合は石垣しか残ってなくても、その代わりに山々の自然があったりハイキング的に別の楽しみ方も出来る。赤穂城跡も同じ。このメインの本丸跡だけを見に来てはいけないと思う。
この城は、周囲の石垣や堀の跡、武家屋敷跡、庭園や遊水池など合わせて見て初めて、その本来の魅力が伝わってくるからです。
さて、上の写真はは三の丸大手隅櫓の近くにある大手門。ここから本丸跡に入れるかと思えば、全然違います。
本丸跡は、まだまだ先。下の地図のような位置関係です。
この門は再建されたもので、大手門のある場所から本丸跡までは徒歩15分ほど。
せっかく赤穂城跡まで来たら、三の丸大手隅櫓(最初の写真)を見て、大手門を歩いておきたい。ここで石垣が見事な桝形。まさに城郭と言った作りです。面白いと思いませんか?
何が面白いのか?
それは赤穂城が出来たのは江戸時代に入ってからの1649年。江戸幕府も3代将軍徳川家光の頃。この頃と言えば豊臣家も滅亡し、徳川の天下は盤石の時代。それなのに函館の五稜郭さながらの複雑な星形に近い城が作られたのか?平和な時代に造られた戦闘ありきの城。まさにミステリーですよね。だって幕府が一番警戒する事のはずだから…。
ちなみに、この星型の造り鉄砲や大砲を主体とした戦を想定した城。
この城の縄張りは甲州流兵学者の近藤正純によってなされ、兵学者の山鹿素行が縄張りについて助言したそうです。
ホント、よくこの時代に、こんな戦闘的な城が作れたもんだと思いません?謎だ。そう考えたら、赤穂城跡も見て面白さがUPしてきますよね。
もちろん、何か理由があったのでしょう。
一般的には、先代藩主の池田氏の不祥事(藩主の池田輝興が狂乱し正室などを殺した正保赤穂事件)が起きて城と領地は没収の改易となる。そこで笠間藩(現在の茨城県笠間市)で城持ち大名だった浅野長直が突然に転封され赤穂にやって来た。
城持ちだった浅野氏、転封の理由も本人には関係ない池田氏の不祥事。だから特別に城造りを許可されたと…。そんな理由を聞きましたが、実際はどうなんでしょうね。
しかし、この強固な城は結局のところ軍事的な実践で使われる事はありませんでした。
ついでに言えば…
この赤穂城は、5層天守の造営も計画されていたそうですよ。
「さすがにやり過ぎ…」と幕府への遠慮があったのか?もしくは財政難の為か?結局のところ天守は造営されず、天守台のみが今日に残っています。浅野氏には身分不相応の城だったとも言われてます。
あっ!この石垣のギザギザは矢穴です。矢穴って知ってますか?
石垣に使われている大きな岩。どうやってカットしたのか。それを導くヒントが矢穴です。この頃は「矢」と呼ばれる鉄製の道具を岩に差し込んで、鉄製の槌で叩く、すると矢が岩に食い込んで亀裂が発生、そして大岩は一気に割れる。その痕跡がギザギザの矢穴というワケ。
石垣を見る時には「あ!矢穴だ」と言った目線で見ると、遠い昔の出来事が、少し身近に感じれたりしてきますね。石垣は色々と見てると楽しいのだ。
そして、赤穂跡城の周りには武家屋敷跡が沢山ある。
今は空き地になってるけど、この辺は全て武家屋敷。賑やかだっただろうなぁ~
そんな武家屋敷跡が数多くある近くに「塩屋門跡」が残っています。
第3代赤穂藩主の浅野長矩の江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)での殿中刃傷、そして切腹へと続く大事件。その悪夢の知らせの早使いが入ったのが塩屋門でした。
その知らせは、自分たちの殿さんが切腹して既に果てたこと、そして赤穂浅野家は取り潰しが決まり、この赤穂城は幕府に引き渡し。しかも成敗されたのは浅野長矩のみ。トラブルの相手だった吉良上野介はお咎めなし。
この悔しさが、後に忠義の敵討ちとして有名な忠臣蔵のお話となってゆく。
そして大石神社を過ぎて、赤穂市立歴史博物館が見えて来る近くにも門の跡があります。
これは「清水門跡」と言う。
この門は1701年4月19日、幕府に城を明け渡す時に大石内蔵助が名残を惜しみつつ退去した場所。ここに立って、歴史を感じるとシミジミしてきます。
大石内蔵助は、きっとこの位置から、本丸をジーっと見つめていたのだろう。
そして外堀や石垣に添って南に行くと、
赤穂城南緑池に出てきました。
この池には黒鳥がいて、こいつがスッゴク可愛い!
きっとエサが欲しいんだと思うけど、近寄って来ます。
移動しても…
ずっと追いかけて来る\(-o-)/
エサちょうだい!エサちょうだい!と言いながら(笑)この子は本当に可愛い。必見です。ここでは30分ほど時間を使っちゃうかも…見てるだけで癒されます。
(ここは赤穂城の南側にある水手門跡付近です)
さて、本丸跡を横目に見ながら、奥へ進んで行くと…
大きな池が見えてきます。ここは「遊水池」なのですが、単なる池ではありません。
実は、赤穂城下一帯は、井戸を掘っても海水が湧き出て飲料水の確保が難しい地域。そこで現在の千種川上流から城内および城下の各戸まで給配水されたんですよ。
これが赤穂浪士に並び全国的に名高い「赤穂旧上水道」です。城内や各屋敷に給配水された後、本丸の堀に至り、そしてこの遊水池で調整されたそうな。
目の前は本丸跡です。
赤穂城跡と言うと、ついつい本丸跡に行ってしまうけど、本丸跡より意外と周囲を巡る方が楽しい。私はそう感じました。ぜひ、両方セットで行ってみて下さい。
本丸跡の周囲は景色の変化があるし、可愛い黒鳥もいる。そして何より「赤穂城の敷地って、こんな大きく石垣と堀が立派だったんだ」と驚かされます。それに緑いっぱいで、歩いているだけで楽しい。赤穂っていい場所だぁ~って改めて感じさせてくれますよ。
赤穂城跡
場所:兵庫県赤穂市上仮屋1424-1
電話:0791-43-6962
営業:9:00~16:30
入場:無料
参考になるサイト