信長首洗いの井(京都、中京区)
最近、京都に行く機会が増えています。京都は歴史が深く、極端な言い方ですが30mごとに何か立札とかある感じ。例えば「~発祥の地」やら「~ゆかりの地」など…
そして、ずっと前から気になっている場所がありました。それはグーグルマップを見ている時に気が付いたのですが「信長の首洗いの井」というもの。
明智光秀に本能寺で急襲され、そこで命を落としたと言われる織田信長。しかし、その遺体は見つからず現在も謎に包まれています。
歴史に「もし…」を言い出したらキリがないが、もし信長の遺体が明智光秀に発見されていたら豊臣秀吉の天下は無かっただろうし、徳川幕府もなかったかもしれない。
その謎に包まれた、織田信長の遺体のヒントがグーグルマップにありました。
しかも…
本能寺跡のすぐ近くに(゚Д゚)ノ
気になりますよね。
そして、グーグルマップを見ながら、目的地まで行ってみると、そこには病院が…
この病院は、京都逓信病院と言います。
まず最初に受付に行き「すみません、病気でも何でもないのですが、実は~」と事情を説明すると、「何もないけど中庭に行っていいですよ」と許可を頂けました。
(※無断では入れませんのでご注意ください)
ありがとうございます!えっでも、何もないの? (・.・;)
とにかく行ってみると…
確かに史跡らしきものは何もありません。あるとすれば人工的に造られた石垣のような囲くらいでしょうか。うーん。
少しガッカリし写真を数枚撮って帰る事に。
受付に立ち寄り、お礼を言いに行くと「病院のHPに情報が少し書いているようですよ」と教えてくれました。とっても親切なんです。
さっそく見て見ると、凄い事が書いてあました。
(以下、京都逓信病院のHPからの引用文です)
当院は、旧三井財閥の総本家、三井発祥の地に建設されています。もともとは、後鳥羽上皇御所のあった地で、徳川初期以降、脇坂中務守龍野藩邸の一部でした。
三井家の当時のままの面影は殆ど残っていませんが、僅かに当院裏庭の南端にある石畳のつたいに、その片鱗を窺うことが出来ます。また、「邸内に『信長の首洗い井』と称する池がある。」と記されてますが、その石垣だけは現存し、病院建設復元されています。
なるほど、ふむふむ。
そして、この後、衝撃の事実が…
蓮臺山由緒略記によりますと、当時の阿弥陀寺の住職清玉上人は、本能寺の変を聞き、大恩ある織田家の一大事と僧を引き連れ本能寺に駆けつけたが、明智の軍勢が四方を囲み寺内に入れず裏道より辛うじて入った。
しかし、お堂は炎上中、信長はすでに割腹自殺したとのこと、遺言に「光秀に遺骸をわたすな。」とあったが周囲を敵に囲まれ不可能、しかたなく傍らの竹林で火葬をしていた。それに出会った清玉上人は、[自分と信長公とは、格別の間柄であるので火葬は勿論将来の追悼もする。あなた方は自害するより敵と戦ってはどうか」と申し出たところ、武士たちは大いに喜び敵と切り結んでいるうちに火葬を終え、白骨を法衣に包んで、本能寺の僧徒らがにげるのに紛れ込んで脱出し、阿弥陀寺へ持ち帰ったとあります。
由緒略記にあるように、寺内の一隅で火葬を行い白骨にすることには疑問があります。最新式の重油焼却炉で千度以上の火力でさえ完全に骨にするには一時間二十分かかり、蒔などを用いる昔式の野辺の送りだと、骨にするのに一晩はかかるはずです。
そうすると、あの[白骨を法衣に包んで」のくだりは時間的に少々無理で、おそらくその人の象徴である「首級だけを法衣に包んで」本能寺の僧らに紛れて脱出、阿弥陀寺での方角は本能寺の北東ですから、そこから五十メートル東方に清水を満々に湛えた池があれば、ひとまず灰や血にまみれた信長の首級を洗って綺麗にしたのではないでしょうか。
そして『信長首洗池』という名称が残ったのではないかと思われます。
とっても興味深いと思いませんか。
これが本能寺の変での真実のような気がしてなりません。最近(2019年)になってTVで紹介されたりし始めていますが、ずっと以前から、伝わる所には伝わっていた話なのでしょう。
ちなみに、本能寺跡までは、ここから歩いて5分もかかりません。
信長首洗いの井
場所:京都府京都市中京区六角町109