【大阪】細川ガラシャ最期の地!細川家屋敷跡に残る越中井

越中井・細川家屋敷跡(大阪)

大阪城から南に位置する場所に越中公園があります。

越中という名前は大阪では耳慣れない名前ですね。これは北陸を示す言葉で、戦国の頃に細川忠興が越中守(えっちゅうのかみ)という官職だったことに由来しているとか。

つまり、この辺一帯に細川忠興の屋敷があったということ。

越中井・細川ガラシャ

この細川屋敷跡は大事件の起きた場所としても知られています。歴史好きな人ならだれもが知っている大事件です。それは1600年 関ケ原の合戦直前のこと。

細川忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は諸大名の妻子を人質にしようとします。しかし忠興の夫人・玉子(細川ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて命を絶ったのです。まだ37歳だったとか。

いわば自害ですが、細川ガラシャはキリスト教徒で自害は禁じられていたので、自らではなく家臣に胸を突かせたというのは有名な話ですね。

この事件は石田三成にとっては大誤算。徳川家康にとっては朗報だったでしょう。いずれにせよ関ヶ原の合戦にも大きな影響を与えたのです。

越中井・細川ガラシャ

ちなみに、細川ガラシャといえば明智光秀の娘です。

明智光秀は織田信長を本能寺で急襲し倒した謀反人。羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れ、裏切り者として血縁者などは捕らえられ処罰されてしまったのも有名な話。

では、なぜ…、その娘である細川ガラシャ(玉子)は助かったのか?それは細川忠興の深い愛によるものと言われています。忠興は京丹後の三戸野に玉子を幽閉し、秀吉が天下を取ったのちに秀吉に許され、その後この大阪にやって来たのでした。

そして、この場所に屋敷があり、この地で生活をしていたといわれています。

越中井・細川ガラシャ

天下人となった秀吉に許されたとはいえ、謀反人の娘…。

親も親族も多くが殺され、心のやり場もなかったのではないでしょうか。心の拠り所を求めていた彼女は次第にキリスト教に心を惹かれ、そして身を隠して教会に通ったという。

そして洗礼を受け、玉子は細川ガラシャとなったのでした。

この地には、そんな彼女の苦しみ、迷い、悩み、そして決断といった人生を過ごしたところ。そう考えると、特別な思いを感じてしまいます。

越中井・細川ガラシャ

石田三成がガラシャを人質に取ろうとした際、それを拒絶し、屋敷内の侍女を集め意思を伝え、屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて命を絶ったのはこの付近。

「人質になって夫に迷惑をかけたくない」という思いより、明智一族として、自分だけ生き残っている現実に死に場所を探していたのかも…なんて感じたりもします。

辞世の句は…

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

越中井・細川ガラシャ

この細川家屋敷跡には、井戸が残っています。

越中井・細川ガラシャ

この井戸は細川家の邸内にあったものとされ「越中井」と呼ばれています。

越中井・細川ガラシャ

ガラシャも使っていた井戸なのだろうか?この井戸は1600年のあの日、ここで何があったのか全てを見ていたのだろうか。ふと、そんな事を感じてしまいます。

この近くにはカトリック教会があり、細川ガラシャ像とキリシタン大名の高山右近像があります。では、次回はこの教会の様子を紹介しましょう。

カトリック玉造教会(大阪) 大阪城の南に細川忠興の屋敷跡があります。関ヶ原の合戦が起きる直前、忠興...

越中井

場所:大阪市中央区法円坂1丁目2−1