赤穂城跡(兵庫県、赤穂市)
元禄14年3月14日、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸城松之大廊下で、吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかった…。これが世に言う赤穂事件。
その結果、浅野内匠頭に即日切腹。播州赤穂浅野家は取り潰し、そして赤穂城は幕府に明け渡しを命じられ…。今回はそんな赤穂城跡に関して。前回は本丸跡の周囲に関して書きましたが、今回はその続きになります。
この幕府の処置に納得しなかったのが、浪人となってしまった浅野家家臣。
そして浪人となって赤穂浪士と呼ばれた彼らは…
主君の無念を晴らすため、苦渋を飲み、耐えに耐え、警戒する相手を隙を作るように機会をずっと伺い、そして元禄15年12月14日、吉良邸に赤穂浪士達は討ち入り吉良を討ち取った!と言うのが有名な『忠臣蔵』のお話。
そんな赤穂浪士の故郷!赤穂城の本丸跡です。
この城の見所は、豊臣家が滅んだ後の徳川幕府の時代に完成した城であると言う事。しかも徳川幕府が安泰となった3代将軍徳川家光の頃。
前回のブログでも、よく徳川の時代に、こんな軍事的な城の築城の許可が下りたものだと書きましたが、実際に来てみると、その点をまじまじと感じます。
まさに銃砲撃戦を意識した設計のお城です。
さて、見事に復元された本丸表二ノ門を過ぎて、本丸跡の中に入って行くと…
この中は…ガランと言った感じ。
実際には所々に細かく案内が入っているので、とっても丁寧。
そして真っすぐ奥に進んで行くと…、そこには本丸庭園の本丸大池泉がある。この庭園は昭和59年の発掘調査で全容が明らかになり、当時の様子をリアルに再現させたもの。
赤穂事件までは、浅野家の人々はここで平和的な時間を過ごしていたのでしょうね。
そして、その横には天守台跡があり、
石段があるので、行ってみると…
この石段の一つ一つが想像以上に大きい。けっこう登るのが大変。大股で「よっこらしょ」って感じです。足の悪い人、腰の弱い人は辛いかも。
石段は10段ちょっとなんですけどね…。
この天守台は5層天守の造営も計画されていたけど、結局は造営させませんでした。幕府への遠慮なのか、財政難の為かは定かではないようですが…
今は天守台のみが残っています。
しかし、何でこんな歩きにくい大きな石段なんだろう?人が歩くと言うよりも、馬に乗ったままで天守台に行くように考えられていたのかな?と思ってしまうほど歩き難い。
この現代の階段まで来るとホッとします(笑)
そして天守台跡の上まで来ると、そこは何もなく芝生のみ。
天気が良ければ、この芝生の上でゴロンと寝ころびたくなる。さすがに観光地なので、そんな事は出来ないけど、この雰囲気は実に良い。
さて、この本丸跡ですが…
上空からの写真で見るとこんな感じ。函館の五稜郭に似てるでしょ!!この城郭は変形輪郭式と呼ばれ、銃砲撃戦を意識した設計のお城と言われるのも分かりますね。
そして天守台跡からの景色は…
けっこう周囲をグルリと見渡せ、城の全体的な様子も分かります。
本丸庭園の本丸大池泉も上から見るとこんな感じ。
うん!やっぱり赤穂城跡に来たら、この天守台跡は登っておきたいものだ。
赤穂城と言えば、浅野内匠頭が巻き起こした「元禄赤穂事件」が忠臣蔵で有名ですが、浅野家の前に藩主の池田輝興が狂乱し正室などを殺す「正保赤穂事件」や、幕末の頃に攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」も起きています。
そう考えたら、この赤穂城って、もしかすると…いわくつきの城なのかも。
赤穂城跡
場所:兵庫県赤穂市上仮屋1424-1
電話:0791-43-6962
営業:9:00~16:30
入場:無料
参考になるサイト