【三重】悲運の武将!織田信孝が眠る亀山市の関宿にある福蔵寺

福蔵寺(三重県、亀山市)

関西と東海を結ぶ無料道路として「名阪国道」の名で親しまれている国道25号。この国道に面した休憩所として関ドライブインのコロッケを以前に紹介をしましたが、今回はその休憩所から車で7分ほど走った場所にある観光スポット「関宿」があります。

この関宿に関しての詳細は後日に改めて触れますが、今回はある悲運の戦国武将とも呼ばれる織田信長の3男、織田信孝の菩提寺について。

 織田信孝の菩提寺、福蔵寺

この織田信孝の菩提寺は「福蔵寺」と言うお寺。関宿の中にあります。この福蔵寺を目的に関宿に来る人は少ないかもしれないけど、関宿を歩き「あ!こんな所に織田信孝の…」と歴史好きな人なら高揚を感じるのではないでしょうか。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

歴史にあまり興味のない人は、信孝って誰?って感じだと思いますが、簡単に言えば織田信長の死後、豊臣秀吉に全てを奪われた人…。と言った感じかな。

この信孝は1583年に26歳の若さで、安養寺(愛知県知多郡美浜町)にて自害しています。正確には兄の信雄に自害させられました。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

信孝は切腹し自害する際、腹をかき切って腸をつかみ出し、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたそうです。そして信孝の辞世の句が…

むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

とにかく秀吉への深い恨みを感じさせる句ですが、この句に関しえ言えば本人の苦ではなく、後世の人が信孝の意をくんで作り上げたものと言う説もあります。

何故なら、この信孝の切腹は兄である織田信雄の命によるもので、結果的には秀吉が全て関与していたとしても、信孝が自害した時点では、それも知る由が無かったとも言われています。なるほど!それも納得です。ところが…、

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

本能寺で織田信長、その後継であった長男の信忠も京都の二条城で死去。そして織田家の家督を決めるべく「清州会議」が行われるも、信長の敵とされる明智光秀を討ち滅ぼした秀吉が強い発言権を持ち始め…、

その結果、次男である信雄、三男の信孝のどちらも後継にならず、幼少であった信忠の遺児、三法師が継ぐことに決まり、その後見役となった信孝は岐阜城に入ります。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

しかし、秀吉は次第に自分が天下人のゆな振る舞いを見せるようになり、次第に秀吉と柴田勝家の対立は深まり、信孝も柴田勝家に接近してゆきます。

そんな様子を待っていました!と言わんばかりに、秀吉は勝家が雪で動けない12月に挙兵岐阜城を包囲し、信孝は秀吉に降伏。そして三法師を引き渡し、母の坂氏を人質として引き渡します。ここが信孝の全ての敗因の元なのかもしれません。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

その後、雪解けと共に挙兵した勝家と「賤ヶ岳の戦い」が始まると、それに応じるがごとく信孝も挙兵します。しかし勝家は秀吉に敗れて北ノ庄城で自害。

そして岐阜城は再び包囲され、人質となっていた母は見せしめとして串刺しにされ処刑されます。この頃から信孝は悲劇の連続で、最終的には兄の信雄に欺かれ和議と思い込み岐阜城を開城し、まもなく自害に追い込まれてしまう…。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

この織田信孝と言う人物は、ドラマなどでは平凡で頭の切れない人物のような描写が多いけど、実際には人望もあり相当な人物だったようです。

ルイスフロイスは信孝を「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、又大なる勇士である」と評していたようです。では何故、こんな結果に…。と思ってしまいますが、とにかく秀吉が、それ以上に凄かったと言う結果なのでしょうか。

織田信孝の菩提寺、福蔵寺

ただ無能だったのは信孝ではなく、信孝の兄である信雄。彼は思慮が浅く、その隙間を秀吉が巧みに利用され織田家崩壊に追い込んだとも。

いや、もしかすると本能寺の変そのものも秀吉が黒幕だったのではないか?と疑ってしまうほど、信長の死後に全てを手にした秀吉全てを失った信孝。この人生の結果を見ると複雑な気持ちになりますね。

最後に、この寺は信孝が信長の冥福を祈るために建立した寺でしたが、結果的に信孝の菩提寺となり、本堂には位牌が祀られているそうな。

福蔵寺

三重県亀山市関町木崎417
0595-96-0504