【滋賀】姉川古戦場の激戦地「血原」に伝わる真柄十郎左衛門

姉川古戦場 血原(滋賀県、長浜)

滋賀県の長浜で織田信長浅井長政が激突した姉川の戦い。一般的には姉川を対峙して激戦が繰り広げられたと言われているけど、実は浅井長政が織田本陣に奇襲をかけたものだった!と言う説に前回は少しふれました。歴史は本当に面白い。

さて、今回は最も激戦の地となったと言われる血原に来てみました。ここはグーグルマップには載っていませんが「ちはら公園」と言う場所。

姉川古戦場、血原

近くまで来ると案内版があるので「姉川の古戦場関係だ!」とスグに分かります。ここで目立つのは下のイラストにある武将の絵。

織田軍の武将?それとも徳川軍の武将?と思い見て見ると…真柄十郎左衛門と書かれていました。それ誰??(゜-゜)

姉川古戦場、血原

ものすごい歴史好きな人なら知っていると思いますが、一般的には知られていませんね。この武将は浅井軍の連合軍としてきた朝倉景健の武将で豪傑と知られた男で、刃長五尺三寸(約160㎝)の大太刀を振るって奮闘したとか。

この真柄十郎左衛門は徳川家康の家臣である向坂式部と渡り合い、そしてその弟の向坂吉政が十文字槍で助太刀に入り、豪傑の真柄の首を打ち取ったそうな。ただ『信長公記』では青木一重と記されているらしい。

ほら、看板の上に「真柄十郎左衛門直隆の大太刀・原寸大」とあるでしょ。

姉川古戦場、血原

じゃ~ん!実は看板の上に刀のレプリカが展示されてるのだ。

姉川古戦場、血原

これね…教えてもらわないと気が付かないかも(笑)

私も熱心に案内板を読んでたけど、気が付かずにスルーしてしまって、偶然ここで出会ったボランティアガイドさんに教えてもらって「おぉ~!」となったのだ。

姉川古戦場、血原

現在ここは穏やかな公園で、パターゴルフが出来るようになっています。

この場所が最も死者が多く出た激戦の地。多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」=「血原」と呼ばれるようになったと言う。

姉川古戦場、血原

もうすぐそこが姉川です。

姉川古戦場、血原

遠くを見渡すと、すぐ近くに小高い丘のような林のような場所が見えるでしょ。あそこが徳川家康が本陣を置いた場所。

姉川古戦場、血原

簡単な地図で見ると、こんな感じ。

姉川古戦場地図

現在地が「血原」で、その横にある古戦場跡が前回紹介した姉川古戦場碑のあった場所ですね。またこの地図には載っていませんが、血原から北に8キロほど北上した先に小谷城跡があり、山の麓に小谷城戦国資料館もある。また、織田信長の陣跡徳川家康の陣跡も改めてブログで書きたいと思っています。

しかし、ボランティアガイドさんの説明はとっても丁寧分かりやすい。ここに来て、もし出会えたら超ラッキーですよ♪

姉川古戦場、血原

ちなみに… この道は緩やかな坂になってるでしょ。そして、車が通っているら辺に段差があるの分かります?

姉川古戦場、血原

そう、この辺り!

姉川古戦場、血原

そして…

姉川古戦場、血原

この辺も…。

姉川古戦場、血原

劣勢になった浅井軍が逃げ出した時、この段差を越えようとしている時、グサっと槍で刺されたり刀で切られたり…この辺りが特に死者が多かったそうな。

この後、戦いの舞台は小谷城へと続き、難攻不落と呼ばれた山城を攻略するのに3年を要したと言われていますが、小谷城が堕ちる前に共に戦った朝倉家は信長に攻め滅ぼされ、家臣は調略され裏切り逃げ出してゆく。

この姉川の合戦は一説によると信長をギリギリまで追い込んだと言う局面もあったそうですが、この戦に敗れてしまった時点で、既に浅井長政の運命も決してしまったのでしょう。

【姉川の合戦の関連記事】

▼戦国歴史資料館から散策開始
▼小谷城跡は哀愁漂う戦国屈指の山城
▼姉川古戦場へ。実は浅井軍の奇襲だった!?
▼姉川の戦いで家康が本陣を敷いた岡山
▼姉川の合戦跡の信長本陣跡へ
▼民泊と長浜の歴史を巡る男旅

姉川古戦場 血原

場所:滋賀県長浜市野村 ちはら公園