姉川古戦場(滋賀、長浜)
姉川の合戦…。これは歴史の教科書にも載っていたので名前だけは聞いて知っているけど詳しく知らないって方も多いでしょう。これは現在の滋賀県長浜市で起きた、織田信長と浅井長政が戦った場所。ここは姉川古戦場跡です。
結果論から言えば信長の圧勝とされるこの戦いも、浅井長政にとっては浅井家の存亡をかけた最後の大戦さでした。
1570年6月28日、浅井長政&朝倉景健の連合軍18,000人、織田信長&徳川家康の連合軍29,000人が姉川を舞台に壮絶な戦いをし、午前5時頃に始まり、午後2時頃には勝敗は決し、浅井&朝倉軍は小谷城へ退陣したと言う。
結果は別として、内容としては信長の圧勝とは言い切れない戦い。一説によると、戦いが始まってスグは浅井長政が信長を圧倒し、信長が死を覚悟するほど追い詰めたとも。
しかし連合軍だった朝倉の陣形が縦に伸び、それを見た家康が榊原康政に命じて側面から攻めた事で一気に形勢が逆転したと…。浅井長政と言う人物は文武共に優れた猛将だったと言われているが、周囲や天運に恵まれなかったのかもしれません。
この戦いでは多くの死者が出て、この地には血川や血原と言った生々しい地名が今も残り、特に激戦区だったと伝わる場所は現在「ちはら公園」として、当時の面影は一切無い穏やかな場所となっています。
この姉川に架かる橋を歩いてみても、とっても穏やか。
地元のボランティアガイドさんの話を聞くと、戦国の頃の姉川は川幅が広く、水深は浅い所もあり、流れも急だったとか。この川の上でも激しい攻防が繰り広げられていたのでしょう。
ただ穏やかに見える姉川もよく見れば湾曲していると所があり、そこは川の流れも強く、そこから這い上がってきた所で討たれ、多くの死者が出たも言われているようです。
この橋を渡った先に古戦場跡の石碑があり、
そこには姉川の合戦に関する説明書きもありました。
この案内板を読むと、姉川の合戦が開始された頃は浅井軍が優勢で、次第に形勢が逆転していったと書かれていますが…。興味深い仮説も。
それは、この戦いは浅井軍による信長本陣への奇襲作戦であり、通説にあるような大規模な合戦ではなかったと言う説の案内です。確かに周囲を包囲され、後がない長政、イチかバチかの奇襲作戦。ますます面白い!!
この周辺に残る古戦場に関する見所。
これが通説の戦の陣形。
そして古戦場碑です。
歴史には必ず通説と仮説がある。何が本当なのかは誰にも分からない。でも、ここで戦いがあって、多くの死者が出て、そして浅井家の存亡をかけた大切な一戦であった事に関しては間違いないこと。
この姉川の合戦の後、小谷城も落城し、そして浅井長政は自刃する。そして長政の娘の三姉妹は生き延び、その長女の茶々は秀吉の側室となり、三女のお江は三代将軍家光の母となる。この姉川の合戦の結果が違っていたら歴史は大きく変わっていた。そんな「もし…」を考えるのがまた楽しかったりもする。
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姉川古戦場
場所:滋賀県長浜市野村町 滋賀県長浜市野村町