明智城跡(岐阜県、可児市)
明智光秀は謎の多い人物で生誕の地も定かではありません。その生まれは岐阜県の可児市、恵那市、瑞浪市、山県市、大垣市と諸説様々。その中でも特に有力地と言われているのが、岐阜県可児市になります。
今回は、そんな岐阜県可児市の「明智城跡」を紹介します。(この明智城は明智長山城跡と呼ばれている場合もあります)
この可児市の明智城跡を紹介する前に、駐車場に関しての情報を書いておきます。ハッキリ言って近辺は道が狭いです。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の放映期間は特に臨時駐車場を利用しましょう。
明智城跡の駐車場に関して
明智城跡には駐車場はあります。私はナビを設定して現地に向かいましたが、ナビは民家のある細い道を誘導し、「この道大丈夫かしら?」と少しハラハラしました。
関係者にその話をすると、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の時は車の量も多くなり、細い路地で対抗が出来ない、身動きが取れない、地元の方の迷惑なるなど…。
(放送期間中、明智城跡の駐車場は一般開放されない可能性もあります)
ですので車で行く場合は、現地に直接行かず、臨時駐車場を利用しましょう。
※臨時駐車場は「可児市公式サイト」をご参考下さい。
登山口から本丸跡まで続く「桔梗坂」には5月中旬~9月頃、地元の小中学生の発案で植えられたと言う桔梗の花が咲き誇ります。
明智光秀と言えば桔梗ですね。この桔梗が家紋となっています。
明智城跡へ出発!
登山口から「桔梗坂」と名付けられた遊歩道を歩き始めると、すぐに冠木門が見えてきます。
ここが大手口跡。大手口とは、要するに正面玄関って感じでしょうか。大手口、大手門、追手門など呼ばれますね。
道は歩きやすい遊歩道。
道は歩きやすいけど、メッチャ蚊が多い。周囲は木々に囲まれているので当然ですけどね。明智城跡に限らず、山城は虫よけスプレーは必需品ですね。
見た感じでは山深いのですが、10分も歩けば視界は広がり平坦な道に変わります。ここから本丸跡までは真っすぐ一本道。
明智城跡の本丸跡に到着!
桔梗塚を歩き終えると「七ッ塚」が見えてきます。これは城が落城した時の戦没者を葬った場所と言われています。
この明智城は、斎藤道三と義龍の対立に空き込まれ、明智城城主の明智光安は、中立を決断するも、道三が討ち取られた後も義理を貫いた結果、義龍に攻められ落城します。
※城の存在、戦の事実に関しては、識者の間で議論されているようです。
明智城跡には、馬場跡があり馬防柵も再現されています。
ちなみに、先ほど落城した時の城主は明智光安と書きました。
この人物は明智光秀の叔父と言われ、光秀はこの光安のもとで軍学を学び、この地で暮らしたと『美濃国諸旧記』にあるようです。
奥に進んで行くと…
本丸跡の石碑がありました。
識者の間で、この明智城跡は城の痕跡がない、後に造成されたもの、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』がベストセラーになり、歴史が歪曲された。
そのような話を耳にする事があります。
実際はどうなんでしょう?城マニアの方が見れば、見て感じる部分もあるのでしょうが、私にはサッパリ分かりません。
明智光秀には謎が多い。
特に光秀は逆臣の烙印を押された事もあって、意図的に歴史から生涯に関するあらゆるものが抹消され、捏造も多い。
出生地も本能寺の変の真相も全て謎だらけ。
だから面白い!そう思いませんか?
ここが本物、あそこが偽物、そうゆう議論は専門家に任せて、私達は「明智光秀ゆかりの地なんだ」と、その軌跡を想像するだけで十分楽しめる。
この明智城が落城したと伝わるのは1556年。その頃に時代をタイムスリップさせたら、この景色の中に見える何処かに、明智光秀が、きっといたはず。
そう、この想像の歴史ロマンこそが楽しい。
ほら、この景色…、左から2つ目の山になるかな?
あそこは美濃金山城跡があります。ここは森乱丸が生まれた場所で、また本能寺で明智光秀に襲われ命を落とした時、乱丸はあの城の城主だったんですよ。
明智光秀と森乱丸、こんな近くにお互いが住んでいたんですね。もちろん、それも明智光秀の生誕の地が現在の可児市だったらの話ですが…。
森乱丸ゆかりの美濃金山城跡、こちらも後日にブログで紹介したいと思います。
明智城跡のスグ横には、日本一大きな明智光秀の位牌のある天龍寺があり、5分ほど歩いた場所に、明智光秀の産湯の井戸があったと伝わる場所もあるんですよ。それもまたブログで紹介してゆきます。
明智城跡の基本情報
場所:岐阜県可児市瀬田1238−3
※名鉄明智駅から明智城跡の登山口の大手門付近まで徒歩約16分
⇒ LINEトラベルjpでの取材記事はこちら