【京都】本能寺跡の場所は?現在は?石碑の前で信長の首の行方を…

本能寺跡(京都、中京区)

戦国時代の最大のミステリーとも言われる本能寺の変。この事変は天正10年6月2日1852年)に京都の本能寺に滞在していた織田信長を家臣の明智光秀謀反を起こして襲撃、そして炎に包まれる中で信長は自害して果てたと言うのが通説。

でも、織田信長の遺体は見つからず…

そして明智光秀は羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れ、謀反人として汚名を、そして秀吉が天下人となり時代は進んで行きます。

本能寺跡

現在は本能寺跡として石碑だけが残っています。

京都市役所の近くに「本能寺」は現在もあります。しかし、1591年豊臣秀吉移転させたので、要するに「現在の本能寺」=「本能寺の変が起きた場所」ではないのです



だから、観光で本能寺に行った時に「あぁ~ここで信長が…」なんて思っても場所が違うんですよね。現在の本能寺と、信長が自害した本能寺のあった場所を地図で見ると…

下のような感じになります。歩くと20分位の距離になります。

本能寺跡

本能寺の変は謎が多く、その首謀者は明智光秀と言われているけど、実際は単独でなく、黒幕がいたんじゃないだろうか?

本能寺の変に関しては、様々な説が色々と囁かれていますね。

例えば、羽柴秀吉説徳川家康説朝廷説など、歴史小説を読んでいると色んな角度で、話が流れて行くので「信長」に関する本は色々と呼んでいくと面白い。

個人的には加藤廣の『信長の棺』とか面白かったです。

「本能寺三部作」信長の棺 上下巻セット

この小説を読んだら…

きっと本能寺からの抜け穴が気になると思う。南蛮寺が何処か?ってね。

あまり詳細を書くとネタバレになってしまうので、アレですが…小説の中では本能寺から南蛮寺まで抜け穴があり、本能寺の変が起きた時、信長はその抜け穴から逃げようとする。

そして…、って感じですかね。その先は本を読んで確認してください。

本能寺跡、南蛮寺跡

でも、上の地図をみたら…

本能寺跡の石碑の場所って、実は本能寺があったと伝わる場所の端っこだったのが分かりますね。そんな内容も次回にて。

本能寺跡&南蛮寺跡(京都、中京区) 京都は歴史好きにはたまらない場所。日本のどの時代を切り裂いても...

本能寺跡

さて、現在…

この本能寺跡には石碑と案内しかなく、当時の面影は全く見当たりません。

本能寺跡

歴史に思いを馳せてやって来ても、ハッキリ言って興ざめしてしまうほど、何もない。

本能寺跡

歴史に「もしも…」はないけれど、

明智光秀が信長を本能寺で急襲した時、もし信長の遺体が見つかり、もし信長の首を光秀が手に入れていたら、歴史はどう変わっていたんだろうか?そんな事が頭をよぎって離れない。

1582年のあの日…、この一帯は兵馬と炎に包まれていた。

本能寺跡

当時の本能寺は石垣や堀のある城郭寺院で、それなりの防御力はあったそうだ。しかし、明智光秀の1万以上の軍勢に対し、信長は100人ほどの従者しか連れていなかったという。

そんなの勝てるわけがない。信長は為す術がなかったはず。

本能寺跡

だから、信長の選択肢は…自害するのみ。

でも、信長は自分の首を渡さなかった。これは彼の最後の意地抵抗絶対に屈しないという怒りプライドだったんじゃないだろうか。

彼の遺体は火薬で吹っ飛んだとも、骨すらも焼けるほど燃え切ったとも、他には、誰かが遺体を隠した、運び出した、色んな説があります。

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ここで余談ですが…

グーグルマップを見ていると、「信長の首洗い井」という場所があります。興味があり行ってきました。それは病院の中庭にヒッソリと、でも今は何も残っていません。

この「信長の首洗い井」に関してはブログで紹介しています。

信長首洗いの井(京都、中京区) 最近、京都に行く機会が増えています。京都は歴史が深く、極端な言い方...

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いずれにせよ、結果的に信長の遺体は見つかっていません。

本能寺跡

この本能寺の跡地に来て、しばらく佇んで当時の事を妄想していると、色んなシーンが頭に浮かぶ。もちろん小説やドラマに影響されているわけだけど…

もしも…、もしも…だよ。

信長の首が明智光秀の手に渡っていたら、歴史は大きく変わっていました。

だって、戦国時代は敵の大将首を取る事が勝利の証。そして勝者が敗者の首を晒す。それは明智光秀が起こした謀反も例外ではなく、主君殺しも正当化できたはずだから。

そうなると、羽柴秀吉との戦は明智光秀が勝利していた可能性も出て来る。つまり豊臣秀吉の天下はなかった。関ヶ原の戦いもなく、江戸幕府もなかったかも…と。

本能寺跡

信長は自分を裏切った光秀に絶対に「お前に俺の首を渡すものか」と。

最後の最後に考えたんじゃないだろうか。それが最後に出来る信長の唯一残された抵抗だったのかもしれない…

本能寺跡

実際に、秀吉山崎の戦い前「信長様は生きている。一緒に謀反を企てた光秀を討とう」と言った手紙を書いたという。凄い戦略ですよね。

そんな手紙が届いたら、誰もが恐れるだろうし、絶対に光秀の味方にならないよね。そして秀吉は山崎の戦いに圧倒的な勝利で終わります。

しかし、これも信長の首が本能寺で見つかっていたら、全てが変わっていた可能性があったんじゃないだろうか。そう考えたら歴史って全てが紙一重。不思議なもんだなぁ~と。

本能寺址とポツンと残る石碑を前に、そんな思いにふけた。

つづく

「本能寺三部作」信長の棺 上下巻セット

本能寺跡

場所:京都市中京区元本能寺南町